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伊賀國 百地丹波城 (三重県伊賀市)

(読み):ももちたんばじょう

百地丹波城本丸石碑

室町時代後期の戦国期(1500年代後半)に伊賀上忍として南伊賀に勢力を張っていた百地丹波は、この百地丹波城を根拠地としていました。
この城跡は丘陵の尾根を利用してつくられたもので、山寄りの郭から現在の青雲寺まで含めると、長さ250m、幅は最も広い所で60mで、伊賀でも有数の規模の城となります。
天正9年(1581)の第二次天正伊賀の乱(第一次伊賀の乱については、丸山城の項を参照。)では、伊賀に侵略してくる織田信長に対して、百地丹波はこの城を焼き払い、名張郡柏原村の柏原城に籠り、信長に対して抵抗を心みます。
しかし伊賀忍者から離反者が発生し、これにより伊賀の他の城は次々と落ちてしまいます。
最後まで抵抗を続けた柏原城の開城をもって天正伊賀の乱は終わりを告げますが、その後の百地丹波の行方は不明になっています。

お城への行きかた

伊賀鉄道 上野市駅下車。駅南の上野産業会館バス停より、三重交通バス 高山ゆきに乗車。喰代(ほおじろ)バス停下車。徒歩約5分。

お城の状況、感想など

丸形池   主郭虎口

喰代バス停で下車します。バス停少し先の交差点でバスは、右(南)に曲がって行きますが、そのまま直進(東)しますとJAの倉庫があります。倉庫の向こうにすぐに右に折れる道に入り、着きあたりを左に行くと「百地砦」の案内があるのですぐ分かると思います。青雲寺の東が城域となりますが、なんとなくこの青雲寺も曲輪の一部であったような印象を受けます。
また青雲時の南側には、丸形池があり、百地丹波城の水堀のような感じを醸し出しています。

主郭北西側   土塁

百地丹波の愛人??の墓と言われる、式部塚を通って南虎口から入城してみました。土塁が高く、木がうっそうと茂っているので日中でも薄暗いです。曲輪は東西に長く、今、石碑と案内板が建っている場所に百地丹波の居館があったようです。
主郭周囲には、土塁が取り巻いており、南側だけでなく、北東側にも虎口があります。

主郭   北東虎口

百地と言えば、百地三太夫が有名ですが、この三太夫と百地丹波は、同一人物と言う説と、百地丹波の孫が三太夫であると言う説があり、はっきりとしていません。
伊賀流忍術の棟梁的存在であった百地丹波であっても、大軍で押し寄せる織田信長には敵わなかったようです。しかし、立て籠もった伊賀柏原城落城後に人知れず姿を消した百地丹波は、紀州に逃れ、根来衆と共に最後まで信長に抵抗したとも言われており、謎に包まれた人物であることは間違いなさそうです。

東虎口   主郭と2郭間の堀

東側にも2郭へ続く出入口がありますが、虎口と言うよりも後世に土塁を削り取って造られた出入口のような印象を受けます。ここから出ると、2郭との空堀があります。

2郭   3郭先の土橋

2郭(下の縄張図では、郭B)は結構広いですが、めりはりのない広場と言った印象です。
さらに不思議なのは、2郭から少し離れて3郭(下の縄張図での郭A)があることです。この間は何なのか縄張的には理解できませんが、現在では確認できないものの曲輪があったのかも知れません。
この3郭の東側には、土橋があり、この先から城外になると思われます。このように単郭の城が多い伊賀地方において、この百地丹波城は、東西に長い曲輪を持つ、連郭式となっており、伊賀者を束ねる棟梁の城としては相応しいと思いました。
この後は、この付近に点在する、単郭城郭である、喰代氏城奥氏城などをめぐってみたいと思います。

百地丹波城縄張図

登城日:2015.09.27(日)

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