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伊賀國 丸山城 (三重県伊賀市)

(読み):まるやまじょう

天守台の丸山城址碑

丸山城は、天正3年(1575)に伊勢国司の北畠具教が伊賀平定のために築きましたが、伊勢に侵攻してきた織田信長に対抗するために伊勢大河内城に籠城。その後、織田信長の次男、信雄を養嗣子とすることで和睦となりました。
その織田改め、北畠信雄が家臣の滝川三郎兵衛(のち雄利)に命じて、天正6年(1578)に丸山城を修築して本格的な城郭を築城しました。
しかし織田氏に従わない、伊賀の土豪集団に丸山城は襲撃され、不意を突かれた滝川雄利は伊勢に敗走しました。
この伊賀の土豪による丸山城襲撃が、第一次天正伊賀の乱と呼ばれています。

お城への行きかた

伊賀鉄道 丸山駅下車。本丸跡まで徒歩約25分。

お城の状況、感想など

丸山城南曲輪

伊賀鉄道丸山駅で下車して南に向かいます。国道422号線から伊賀鉄道線を越えた東に細い川に沿った道がありますのでここに入り南下します。すぐ左にある山が丸山城です。
200mほど南下すると人だけが通れる橋がありますので、これで川を渡って山に入っていってもいいですが(西の丸に着きます。)、そのまま南下して着きあたりを左に行き、丸山集議所から、約50m先に山(左)に入る道がありますので(「丸山城跡」の矢印あり)、ここから登城することにします。

丸山城本丸から見る天守台

登って行くと削平地に小さい社が祀ってあります。ここは南曲輪となっており、文字通り丸山城の南を防御する拠点です。そのまま登って行くと本丸に至ります。現在本丸には木々が蔽い茂り、地面は低い笹に覆われており、余り整備状況は良くありません。
本丸の西端には天守台跡があり、巨大な石碑が建っています。この石碑、大正10年(1921)3月に当時の神戸村によって建てられたものです。天守台周辺には土塁のような高まりがありますが、これは天守を載せるための基礎でしょうか?天守台からは北に曲輪があるのが良く見えます。また天守台の西には石塔のある曲輪もあります。

丸山城本丸土塁と横堀

本丸の東には土塁があり、土塁前には横堀のような窪みも見られます。その土塁の北の方面には何か鳥居のような、冠木門のような木で作られた門??があり(これは最近のものです。)先に北の曲輪が続いています。
本丸に戻って、西の曲輪に行ってみます。虎口は天守台と櫓台に挟みこまれるようになって西の曲輪への通路になっています。西の曲輪方面から攻め手が押し寄せると、天守台と櫓台から横矢を食らうことになります。
それにしても閉口したのは、蜘蛛の巣の多いこと…。結構広い道でも容赦なく蜘蛛が巣を作っています。油断しているとすぐに顔に巣がまとわりつくので、手を前に出して上下させながら巣を払い除け進みます。

丸山城櫓台

西に進んで行くと右に大きな櫓台がありました。この櫓台の先に堀切がありますので、ここでも西から攻めてくる敵を迎え撃つ施設です。
この丸山城では最大の堀切を越えて行くと、小さい堀切が1ヶ所。櫓台のような高まりが2ヶ所確認できて、西端の曲輪に出ました。
ここは西の丸跡のようで、現在は水道施設があります。この西の丸から下りる道がありますが、下りたところが獣除けでしょうか電線のようなものが張ってあります。よく見ると線だけで電流は流れていないようですので、失礼して線と線の間を潜って外に出ました。

堀切に架かる土橋

登城日:2012.07.19(木)

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