伊豆國トップページ

伊豆國 山中城宗閑寺墓所 (静岡県三島市)

(読み):やまなかじょうそうかんじぼしょ

宗閑寺墓所

東月山普光院宗閑寺(浄土宗)は、静岡市の華陽院の末寺で、開山は了的上人、開基は間宮豊前守康俊の女、お久の方と伝えられ、山中城三の丸跡に建立されています。
このお寺には山中城攻城戦での戦死した、北条軍(山中城主の松田康長、副将の間宮康俊兄弟、上野箕輪城主の多米長定)、豊臣軍(一柳直末)の墓石が並んでうらみを忘れたかのように現在も佇んでいます。

宋閑寺への行きかた

JR東海旅客鉄道 東海道本線、東海道新幹線 三島駅下車。駅前より、東海バス 元箱根ゆきバスに乗車。山中バス停下車。徒歩約2分。


宋閑寺墓所の状況、感想など

一柳直末の墓

宋閑寺だけなら、山中城跡バス停の1つ先、山中バス停下車が便利ですが、山中城をひと巡りしてから宋閑寺に行かれるのがよいでしょう。宋閑寺は、山中城三の丸跡にあります。国道1号線がすぐ脇を通っていますが、これは山中城が旧東海道を取り込んだ縄張りになっているためです。
小さいお寺ですが、その中に豊臣、北条両軍の武将の墓所があります。向かって右側が、豊臣軍の一柳直末の墓所になります。墓石は大きくけっこう新しい立派です。これは一柳家の子孫の方が墓石を新しく建て直したからだそうです。
墓石には戒名の「大通院殿前豆州太守天叟長運大禅定門」と刻まれています。一柳直末は、豊臣秀吉に古くから仕えていた武将で、直末戦死の報を聞いた秀吉は、直末を失った悲しみで3日間塞ぎこみ嘆き悲しんだといわれています。

山中城主松田康長奄ニ間宮康俊以下、諸将の墓

向かって左側が北条軍の諸将の墓所で、墓石や塔が4基並んでいます。一番右側が山中城の城主であった松田康長のお墓で、その隣にある3基の五輪塔は、副将の間宮康俊とその弟(間宮信俊か?)。多米長定の3名のお墓です。
豊臣秀次が率いる軍勢約3万5千(一説には7万とも。)を迎え撃った山中城の城兵は豊臣軍の10分の1ほどの約4千弱。本来であれば豊臣軍もじっくりと攻城戦をするのが得策ですが、秀吉の機嫌を損ねないように短期決戦で力攻めをします。
その結果、山中城は半日で落城しますが、豊臣軍も秀吉のお気に入りの一柳直末が討死するなど甚大な被害が出ました。

岱崎出丸すり鉢曲輪

宋閑寺のから国道1号線(旧東海道)を挟んだ南側には、岱崎出丸があります。ここを守備していたのが副将の間宮康俊です。全体的に細長い曲輪で、曲輪の北側には、一の堀と呼ばれる畝堀があります。出丸の先端は、すり鉢曲輪といい、曲輪の中央部分がすり鉢状にくぼんでいます。端には見張台もあり、雲が多いものの富士山が見えます。普段、戦がなければこのように風光明媚な場所です。
豊臣軍の猛攻に総大将の北条氏勝は落城前に逃げ出し、総大将を失った北条軍は、山中城主の松田康長、副将の間宮康俊の奮戦により、小田原征伐による最大の激戦地になりました。それに引き換え、本城・小田原の大失態は語るもがなです。


岱崎出丸一の堀
  岱崎出丸から見た富士山

墓参日:2009.03.05(木)

inserted by FC2 system