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備前國 大仙山城 (岡山県赤磐市)

(読み):だいせんやまじょう

大仙山城主郭

この大仙山城は、周匝茶臼山城の出城として、笹部勘二郎が築城したものと思われます。特に主家の天神山城主、浦上宗景が、宇喜多直家に下剋上により、天神山城を追われた際、宇喜多直家への備えとして築城された公算が高いと思われます。
笹部勘二郎と子の笹部貞利は、美作三星城主の後藤勝基と同盟を結び、宇喜多直家と対抗しますが、天正7年(1579)の宇喜多直家の美作侵攻で三星城は落城。直家は即、この周匝茶臼山城と大仙山城にも兵を向け、笹部父子は防戦しますがついに落城。笹部勘二郎と貞利は、城と運命を共にしました。

お城への行きかた

JR西日本旅客鉄道 山陽本線 山陽新幹線 岡山駅下車。駅東口のバスターミナルより、宇野バス 湯郷温泉経由、林野駅ゆきに乗車。周匝バス停下車。または、宇野バス 美作線ネオポリス方面ゆきバスに乗車。新道穂崎バス停で下車して、赤磐市広域バスに乗り換え。周匝バス停下車。
(注)宇野バスにつきましては、岡山駅より、湯郷温泉経由林野駅ゆきバスは、以前は1時間1本ありましたが、平成25年春の改正により、日中を中心に大幅減便となり、その減便分を補うため、赤磐市、美作市、美咲町の共同運行で、代替バスの赤磐市広域バスが運転されています。岡山駅から乗り換えバス停の新道穂崎までは、約30分掛かります。
周匝までの(または周匝からの)バスの時刻は、片上鉄道保存会さんのサイト内にも掲載されていますので、ご参照ください。


お城の状況、感想など

大仙山城登城道から周匝茶臼山城を見る

池田家墓所の東墓所と西墓所のちょうど間に大仙山城への登城道があります。登城道入口には案内板の他に縄張図付きのパンフレットが収められている棚がありますので、一部貰います。また杖も置いてありますので、借りて登城した方がいいです。杖振りながら歩くと蜘蛛の巣除けにもなります。
この大仙山城は、地元の方により、登城道にはロープが張られており、説明板もありますので、中世山城の登城にしては大変歩きやすいです。(ありがとうございます。)しばらく登城道を進んで行きますと、右手に周匝茶臼山城の模擬天守が見えます。山の山頂にある天守は模擬であっても山城の雰囲気が伺えます。


堀切に架かる土橋   連続堀切

土塁(左の案内板のある場所)と横堀

ここからは言葉だけでは理解しにくいと思いますので、下記の大仙山城縄張図をご参照の上、ご一緒に登城いたしましょう。
しばらく行くと登城道にも浅い堀切が数本ありました。城域に入ったと思われます。そのままロープ沿いに少し下ると大堀切がありました。この堀切には少しカーブした土橋が付いており、土橋で渡ると右に堀切の尾根上に登る階段が付いていますので登り、尾根上を北に少し行くと、ボコボコと地面が凹んでいるのが確認できます。今は浅くなっているものの、大堀切から続く連続堀切のようです。
尾根下に戻り、主郭方面に向かいますと、土塁に着きあたり、この土塁の左右が横堀となっています。土塁上を進みますと、曲輪へ右上がる道とそのまままっすぐ進む道に分かれます。まっすぐ進む道はちょっと木々が倒れ荒れているようなので、先に曲輪へ登ることにします。

虎口を曲輪内から見る

曲輪の入口である虎口を入りますと、主郭と二の曲輪を取り囲む帯曲輪になります。この帯曲輪の南に井戸がありました。この井戸以外にも、水溜りのような、池のような遊水地がこの付近随所に見受けられます。築城当時からあったものかは不明ですが、これは山城にしては珍しいと思います。
この帯曲輪井戸のすぐ北が主郭となっているようで、また後ほど行くとして、帯曲輪の東部分に行きます。東部分は段々になっており東側の監視が出来るよう張り出しており、周囲には土塁が巡っています。この部分にも池があります。

井戸   帯曲輪の東端土塁上

最北端の曲輪(見張り所か??)

虎口まで戻ってきて、今度は帯曲輪の北部分を行ってみることにします。帯曲輪の北にもう1つ土塁で囲まれた曲輪があります。これは北の監視する曲輪で、先端が細く張り出しています。その先には堀切が数条ありますので、この北の尾根を監視しているのでしょう。また帯曲輪との境目には、武者隠しのような遺構も見られます。
主郭部分に入ります。ここは2つの曲輪によって成り立っており、北の方が面積は大きいですが、主郭は南の一回り小さい曲輪となっているようです。この両曲輪とも少し木々が茂っており歩きづらいです。(それから蜘蛛の巣も。杖があれば…。)主郭の南端からは、先ほど訪れた帯曲輪の井戸が見下ろせます。

畝状竪堀群

主郭を下りて、先ほどの曲輪に登る道と、まっすぐ行く道との分かれ目に戻ります。木を掻き分けてまっすぐ進むと、左下に畝状竪掘群があるのが確認できました。
この畝状竪堀群ですが、写真では上手いこと捉えきれませんが、肉眼でははっきりと確認できます。今は木と草に覆われている部分も多いですが、それでも竪堀がはっきりと分り、「これは凄い!!」と少々興奮状態となってしまいました。
この大仙山城と、周匝茶臼山城を合わせて1つの城と言う考え方もできますが、浦上氏の一介の家臣が持つにしては、壮大すぎるお城でした。険峻な山城で、水も豊富なのに、宇喜多氏の侵攻により、早期に落城したことを考えると、この壮大な山城を守備する兵力が完全に不足していたためではないかと思いました。


周匝茶臼山城縄張図   大仙山城縄張図

登城日:2013.07.07(日)

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