遠江國トップページ

遠江國 横須賀城 (静岡県掛川市)

(読み):よこすかじょう

横須賀城

横須賀城は、天正2年(1574)に武田勝頼によって奪われた高天神城を奪回するべく、前線の陣城として天正6年(1578)に徳川家康が、大須賀康高に命じて築いた城です。
家康は、この横須賀城以外にも、6つの砦を築いて完全に高天神城を孤立させ、満を持して天正9年(1581)に総攻撃をしかけました。
高天神城は完全に包囲されているため、武田勝頼も援軍を送ることができず、高天神城代の岡部元信をはじめ城を守る武田家臣は討死して高天神城は陥落しました。
以後、横須賀城は、近代城郭として整備され、大須賀氏2代の後、渡瀬氏、有馬氏、など藩主が変わりますが、天和2年(1682)西尾忠成が2万5千石で入封し、西尾氏が8代続き明治を迎えました。

お城への行きかた

JR東海旅客鉄道 東海道本線 袋井駅下車。駅前バス停から、秋葉バスサービス 秋葉中遠線 横須賀営業所もしくは、大東支所ゆきバスに乗車。七軒町バス停下車。徒歩約5分。


お城の状況、感想など

横須賀町番所   横須賀城搦手門を移築した本源寺

横須賀城へは、JR袋井からバスに乗りますが、私は高天神城下城後にこの横須賀城まで来ましたが、バスの便が悪く、結局1時間半歩いて横須賀城に来ました。
横須賀城の手前、県道69号線沿いの掛川市大須賀支所の北に江戸時代に建てられた横須賀町番所が移築されています。この番所は、横須賀城街道筋の人の往来監視する目的で建てられたもので、明治になり横須賀城関連の建物が取り壊される中、奇跡的に残った建物です。
横須賀城番所の場所

城主井上氏の墓塔   撰要寺に移築されている不開門

このまま横須賀城には行かず、少しお寺めぐりをします。まず横須賀城の北東にある本源寺です。この本源寺の山門は、横須賀城の搦手門を移築したものと伝えられており、山門横には、横須賀城10代城主の井上主計頭正就の墓碑があります。
その後、横須賀城の北を迂回するように歩き、今度は城の北西にある撰要寺に来ました。
本源寺の場所

撰要寺内の大須賀氏墓所   撰要寺内の本多家墓所

この撰要寺山門は、明治の横須賀城廃城時に、不開門を移築したもので、門には「丸に立葵」の紋が付けられており、12代城主・本多利長の在城時代の正保2年(1645)〜天和2年(1682)の建築と思われます。また境内には、初代城主の大須賀家、12代城主の本多家の墓所もあります。
お寺めぐりの後は、横須賀城に登城します。
撰要寺の場所

不開門跡   北の丸から見る本丸

横須賀城北西の撰要寺から登城となりますと、移築門のあった不開門が一番近いです。この不開門跡には、枡形の後と思われる、四角い窪地がよく残っています。
順番は少し前後しますが、本丸を回り込んで、北の丸〜松尾山と見学して行きます。

松尾山   三日月池

北の丸は、本丸の北側を回り込むようにあり、帯曲輪のような感じです。本丸北東側に小山がありますが、この山が松尾山です。松尾山は、横須賀城築城当時の本丸と伝えられており、山頂は削平された曲輪で、北の丸から本丸がよく見渡せます。しかし少し面積的に小さいので、新たに本丸を整備して移したものと考えられます。

天竜川の石を利用した玉石垣   本丸から見下ろす

本丸方面に向かいます。また横須賀城の本丸南には、内堀のような三日月池が残っています。三日月池を見てから本丸に入りますが、石垣造りの本丸ではあるのですが、石が丸いのです。いろんなお城を見てきましたが、このような丸い石を積んだ石垣は初めてです。
この丸い石垣は、天竜川の川石を利用しているとのことで、丸い川石でも崩れない石積みの技術に感心しました。

横須賀城址碑   天守台跡

本丸は、西の丸と一体になった曲輪で、北東隅に天守台があります。天守台と言っても本丸との高低差がなく、礎石があるのみなのですが、北の丸や松尾山方面から見た場合、高低差がはっきりしているので、天守台ぽく見えます。またこちら方面には石垣ではなく、土の切岸ですので、やはり正面からの見栄えを良くし、敵にも威圧感を与えるために、正面のみの石垣造りを採用しているのようです。

横須賀城東大手跡   横須賀城西大手跡

最後に、横須賀城には、大手門が2つあります。東大手と西大手に分かれています。東大手は、住宅地となっており、その雰囲気は失われていますが、西大手の方は、大手門跡とその左側には櫓台跡もあり、重要な施設であることが伺えます。またその西大手門跡には、外堀跡も確認できます。
これで横須賀城を下城して、バスで袋井駅に出て、浜松泊り。明日は、三河蒲形陣屋からスタートします

横須賀城跡絵図

登城日:2015.03.20(金)

inserted by FC2 system