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遠江國 高天神城 (静岡県掛川市)

(読み):たかてんじんじょう

高天神城遠景

高天神城は、応永23年(1416)に今川範政が今川了俊の進言により築城したと伝えられていますが、定かではありません。また今川氏が遠江侵攻を開始し、遠江守護職の斯波氏と戦うために明応〜文亀年間(1492〜1504)に築城されたとの説もあります。
桶狭間の戦い後、今川氏が没落すると高天神城主であった小笠原氏興は徳川家康に帰属しました。
元亀2年(1571)には、武田信玄は2万5千の軍勢で高天神城を攻撃しましたが、堅固な高天神城を攻めきれず、その日のうちに撤退しました。
天正2年(1574)には、亡き信玄の子、武田勝頼が高天神城に侵攻。城主の小笠原氏は、家康に援軍を要請しますが、たのみの織田軍は一向一揆のために援軍が送れず、徳川単独で援軍を出すことができない状況でした。援軍が来ない状況に耐えかねた小笠原氏は降伏し、高天神城は開城しました。
信玄でも陥とせなかった高天神城を落城させたことで、武田勝頼の武名が轟き渡りましたが、天正3年(1575年)5月、武田勝頼は、長篠の戦いで惨敗すると、徳川家康は、高天神城を攻める陣城として、横須賀城など6つの砦を築いて完全に高天神城を孤立させ、満を持して天正9年(1581)に総攻撃をしかけました。 高天神城は完全に包囲されているため、武田勝頼も援軍を送ることができず、高天神城代の岡部元信をはじめ城を守る武田家臣は討死して高天神城は落城しました。
落城後、中枢は横須賀城に移り、高天神城は廃城となりました。

お城への行きかた

JR東海旅客鉄道 東海道本線 、東海道新幹線 掛川駅下車。駅北口バス停より、しずてつジャストラインバス 大東浜岡線バスに乗車。土方バス停下車。登城口まで徒歩約10分。さらに主郭まで徒歩20分。


お城の状況、感想など

高天神城追手門入口看板   追手門登城口

「高天神を制するものは、遠州を制す。」と言うほど重要で、なおかつ幾たびの激戦が繰り広げられた高天神城に登城します。
私は、掛川城下城後にバスに乗って、高天神城に向かいました。
土方バス停で下車しますと、バス停の少し南に高天神城の追手門入口への案内看板があります。

追手門跡   着到櫓跡

追手門の看板から少し歩きますと、前方に高天神城が見えてきました。この日はあいにく空模様が悪く、高天神城も霞んでいます。しかし雨はもう止んでいますので登城には問題なさそうです。
バス停より、徒歩約10分で追手門入口に到着です。ここには案内図がありまして、散策路がハイキングコースとして整備されています。

三の丸跡   三の丸土塁

高天神城は、東峰と西峰に分かれており、一城別郭と呼ばれています。まず追手門のある東峰からです。
追手門跡にはコンクリートの階段を登って行きます。追手門跡にて45°屈曲していますが、枡形のようです。今は細い山道となっており想像ができませんが、当時は大きな門が備え付けられていたのでしょう。着到櫓跡を過ぎますと、本丸と三の丸への分岐がありますが、まず三の丸へ行きます。

御前曲輪跡   高天神城本丸

三の丸には休憩所があり、その後方には土塁がよく残っています。元亀2年(1571)の武田氏の来襲時には、徳川家臣の小笠原与左衛門が守備していたことから、別名、与左衛門平とも呼ばれています。
三の丸から本丸方面に向かいますと、手前に御前曲輪があります。この曲輪には、元天神社があり、城主の小笠原長忠とその奥方の記念撮影用の顔抜きパネルが設置されています。
その後方には、コンクリートの基礎がありますが、これは昭和9年(1934)に地元出身の軍医少将が、個人で建てた2層の模擬天守の跡とのことです。昭和20年(1945)に落雷により焼失しました。

本丸土塁   的場曲輪跡

JR掛川駅から、北に徒歩約10分の掛川公園内にあるのが掛川城があります。
本丸に入ります。本丸は北から東に土塁があり、南北に長い曲輪です。また西下には、的場曲輪がありますが、これは本丸の帯曲輪に相当します。ここから本丸北東側に回りますと、大河内政局石窟があります。

大河内政局石窟   井戸曲輪跡

大河内政局石窟は、天正2年(1574)に武田勝頼によって高天神城が落城すると、徳川家臣の大河内政局が武田勝頼に従わなかったため、8年にも亘って閉じ込められた石窟です。8年とはすごいですね。徳川が高天神城を奪還するまでよく耐えたものです。
そして、東峰と西峰間の窪地にあるのが井戸曲輪です。名の通り大井戸があります。この井戸曲輪から北側に下りると搦手門ですが、もちろん西峰に行ってみます。

西の丸跡   堀切

井戸曲輪から、階段を登りますと、高天神社が建立されています。ここは西の丸跡となっています。高天神社周囲には、西の丸の土塁がよく残っています。
西の丸と馬場平の間には大きな堀切があります。この堀切を越えますと、馬場平です。この馬場平は、高天神城の一番西の曲輪になります。

馬場平   犬戻り・猿戻り

馬場平から先には、犬戻り・猿戻りと言われる抜け道があります。天正9年(1581)の落城の際、軍監の横田甚五郎尹松は、本国甲斐の武田勝頼に高天神城落城を知らせるため、この細い尾根道を馬で駆けて逃走しました。今でも屈曲した尾根道で、単騎であっても怖そうな難所です。

二の丸   空堀

道を戻りまして、二の丸に向かいます。二の丸から堂尾曲輪の西下には、南北に伸びる横堀があります。
この二の丸と堂尾曲輪がある北峰は、防御が手薄だったようで、この横堀は、武田勝頼によって落とされた際に、弱点を補う形で補強されたもののようです。

土塁と空堀   土塁

この数十メートルも次く横堀は、高天神城の見どころの1つと言えるでしょう。
これで高天神城を一通り見たと思いますので、井戸曲輪二戻ります。

三日月池   高天神城跡碑と搦手門跡

井戸曲輪から搦手道を下りて下城します。井戸曲輪を一段下りた場所には、三日月井戸があり、現在は金魚が泳いでいます。井戸と言うより溜池のような感じです。
搦手門跡に下りました。ここには高天神城跡と彫られた石碑も設置されています。
武田信玄も落とせなかった城を、息子の勝頼は、力攻めで落とし、勝頼の武勇を見せつけることができましたが、こんな遠州の奥地にまで入り込んだせいで、反対に徳川に反攻されると、結局援軍を出せずに見殺しとし、国人衆の失望を買いました。結果、武田家を失墜させる原因となりました。
この後は、徳川方の高天神城付城群の本拠となった、横須賀城に登城します。

高天神城想像図

登城日:2015.03.20(金)

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