遠江國トップページ

遠江國 掛川城 (静岡県掛川市)

財団法人 日本城郭協会選定 「日本100名城 bS2」

(読み):かけがわじょう

掛川城天守

掛川城は、文明年間(1469〜1487)に駿河の今川義忠が、重臣の朝比奈泰煕(やすひろ)に築城を命じました。泰煕は、はじめ天王山に掛川城の前身となる掛川古城を築城しました。その後、信濃から小笠原氏の侵攻に備えて、永正10年(1513)ごろ、この古城の南西方向にある竜頭山に、新城を築きました。この城が現在の掛川城です。
掛川城は、代々朝比奈家が城代を努めてきました。しかし、永禄3年(1560)の桶狭間の合戦で、主家の今川義元が織田信長に討たれると、急速に今川氏は衰退、遠江国は、徳川家康の所領となり、永禄12年(1569)に城代として家康の重臣・石川家成・康通親子が入りました。
天正18年(1590)に家康が関東八州250万石に移封されると、掛川城には豊臣秀吉の直臣であった山内一豊が5万1千石で入封し、一豊は掛川城の大修築を実施し、近世城郭として生まれ変わりました。
慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いの後、一豊は土佐一国24万石を与えられて高知城に転封し、その後、掛川城には徳川歴代の譜代大名が入封しましたが、掛川城最後の城主には、城造りの名人、太田道灌の末裔である太田氏が入り、明治を迎えました

お城への行きかた

JR東海旅客鉄道 東海道本線、東海道新幹線 掛川駅下車。徒歩約10分。


お城の状況、感想など

掛川城復元大手門   掛川城御殿

JR掛川駅から、北に徒歩約10分の掛川公園内にあるのが掛川城があります。
南の入口には大手門が復元されていますが、実際に大手門があった場所は、現在地の50mほど南になります。大手門の移動??は、市街地ゆえ仕方ないところでしょうか。
また掛川城前には、逆川が流れており、ここら辺りからは、天守と太鼓櫓が並んで見えます。望遠レンズを使えば両方いい感じで写真を撮ることができます。(トップの写真)写真を撮った後に掛川城に入城します。

御殿内上段の間   三日月堀?

まず掛川城二の丸にある御殿に入ります。ここに掛川城の100名城スタンプが設置されています。
この掛川城御殿は、藩主の邸宅と藩役所を兼ね備えており、公式式典の場にも使用されてました。昭和55年(1980)には、国指定の重要文化財に指定されています。
御殿が現存しているのは、あと武蔵川越城や、山城二条城など数か所しかないそうで大変貴重です。
畳敷きの広間からは、庭を隔てて天守閣がよく見えます。しばし畳に座り、御殿の雰囲気を味わいました。

本丸門跡   天守を見上げる

御殿の前には、三日月堀があります。この三日月堀があると言うことは、馬出しの跡なのでしょうか?
左手上に太鼓櫓がそびえる本丸門を入り、掛川城天守に向かいます。この天守は、小山上にある天守丸にあり、平山城の様相となっています。

天守から見る太鼓櫓   天守丸 霧吹き井戸

天守丸への階段を登りますと、かなり景色がよく、太鼓櫓がよく見えます。
また天守丸内には、井戸があるのには驚きました。この井戸は、霧吹き井戸を言い、永禄12年(1569)に徳川家康が、今川氏真の立て籠もる掛川城を攻めた際、この井戸から霧が吹きだし、城を包みこみ、家康軍の攻撃から城を守ったと言う伝説があります。

天守内   天守から見る掛川古城

掛川城天守に入ります。掛川城天守は、天正19年(1591)から慶長元年(1596)に掛けて山内一豊によって初めて天守が上げられましたが、江戸後期の嘉永7年(1854)の大地震により倒壊。その後再建はされませんでしたが、平成5年(1993)に城絵図や古記録を元に、3層4階の天守が再建されました。

天守から見る御殿   天守と太鼓櫓

小山上にある掛川城天守からの眺望はよく、先ほどまで居た掛川古城や、御殿なども見下ろせます。
天守から下りまして下城となりますが、この後は、バスに乗車して、徳川v.s.武田の激戦地となりました、高天神城に向かいます。

掛川城古地図

日本100名城スタンプ情報

掛川城スタンプ

掛川城御殿の受付に設置してあります。
御殿受付内にて保管されていますので、開館時間内でないと押印できません。
掛川城の入城料、開館時間、定休日などはサイトをご覧ください。

登城日:2015.03.20(金)

inserted by FC2 system