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陸奥國 八戸城 (青森県八戸市)

(読み):はちのへじょう

八戸城角御殿表門

八戸城の前身は、南部師行の孫にあたる、南部信助が根城の支城として築いた中館だと言われています。
南部宗家の南部利直は、寛永4年(1627)に、根城の根城南部氏(八戸氏)を遠野へ移封すると、八戸は南部藩(のち盛岡藩)直轄地として代官によって支配させました。
第2代盛岡藩主の南部重直が、寛文4年(1664)9月に死去すると、将軍家綱の裁定により、重直の弟、七戸重信に盛岡8万石を与えて宗家を継がせ、同じく弟の中里直好には、八戸2万石を与えて分家させました。
中里直好は南部直房と名を改めて、八戸藩の初代藩主となりましたが、新たに居城を築かず、盛岡藩時代からの三八城山建物を改修の上、八戸城として利用しました。

お城への行きかた

JR東日本旅客鉄道 八戸線 本八戸駅下車。徒歩約5分。


お城の状況、感想など

二の丸跡

JRならび、青い森鉄道の八戸駅から、JR八戸線に乗車して、2つ目の本八戸駅で下車します。ここが八戸市の中心部になります。本八戸駅からすぐ南が八戸城跡の三八城(みやぎ)公園になります。
まず三八城公園入口より少し南に、八戸城の角御殿表門(現 南部会館)があります。かなり大きく立派な門です。寛政9年(1797)に八戸藩の煙山氏によって建てられた門で、この付近は八戸城本丸に近く、重臣の屋敷地であったようです。しかしこの門は、昭和53年(1978)に積雪によって倒壊し、翌昭和54年(1979)年復元されました。

義経伝説のある、おがみ神社

三八城公園入口の東は、二の丸跡になります。この二の丸跡には現在、おがみ神社があります。(“おがみ”の漢字は、“雨”の下に“口”が横3つならび、その下に“龍”。難しい漢字で、このサイトでは表記できません。)
このおがみ神社は「義経伝説」があり、源義経は平泉で死なずに、北へ逃げてこの地にたどりつきましたが、義経の正室である、久我大臣の姫が亡くなり、葬られたのがおがみ神社だと言われています。

三八城公園入口の八戸城跡碑

さて八戸城本丸跡の三八城公園に入ってみます。まず公園入口に「八戸城跡」の石碑があります。本丸内はすっかり公園化されていますので、八戸城の遺構は無いようですが、なんとなくこれ“土塁??”とか思われるものもありますが、多分違うでしょうね。
八戸藩は2万石ですから、本来なら“城”ではなく、八戸陣屋となりそうですが、第8代藩主の南部信真の時、天保9年(1838)沿岸警備の功により城主格となったそうです。私としては、“城主格”と言う名誉よりも、所領を増やして欲しい所ですが、もう幕府も所領を与える余裕もなくなってきたと言うことでしょうか。


八戸城本丸跡碑   八戸城本丸跡

初代藩主の南部直房像

三八城公園中央の築山(櫓台跡では無いと思います。)に初代八戸藩主の南部直房公の像があります。陣笠をかぶり、床几に腰掛ける姿はなかなか凛々しいです。
公園の端には展望デッキがあり市内が一望できます。、ここから市内を見てみると、やはりこの八戸城跡の三八城公園全体が高台になっていることがよく分かります。
最後に公園南の三八城神社に寄ってみます。この神社は、南部氏の祖、南部光行、八戸藩初代藩主、南部直房、甲斐源氏の祖、新羅三郎義光の3名がご祭神として祀られています。南部氏は、甲斐源氏だったのですね。神社を参拝後、本八戸駅に行き、JRで帰ることにしました。

八戸城縄張図

登城日:2010.07.08(土)

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