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伊賀國 北畠具親城 (三重県名張市)

(読み):きたばたけともちかじょう

北畠具親城遠景

北畠具親は、伊勢国司の北畠家第7代当主・北畠晴具の3男として生まれましたが、長兄の具教が伊勢国司を継いだため、具親は出家して奈良興福寺東門院院主となりました。 天正4年(1576年)11月に北畠具教が隠居先の伊勢三瀬館で、養嗣子となっていた北畠信雄(織田信長の次男)謀殺されると、北畠具親は還俗して伊賀に入り、北畠の旧臣であった吉村氏を頼ってこの地に北畠具親城を築きました。
後、伊勢南部の北畠家の旧臣を結集して天正5年(1577)に織田家に対して、伊勢国飯高郡森城で挙兵に及びますが、北畠信雄によって鎮圧され、北畠具親は安芸の毛利輝元を頼って備後鞆城に落ち延びました。

お城への行きかた

近畿日本鉄道 大阪線 名張駅下車。駅東口バス停から、三重交通バス つつじが丘ゆきバス乗車。つつじが丘南五番町バス停下車。徒歩約35分で登城口。


お城の状況、感想など

登城道進入路   ようこそいらっしゃいませ

奈垣 下山甲斐守城を下城後、それほど遠くない距離にある(直線距離で約1kmですが、道路を迂回すると登城口まで約2kmほど離れています。)に登城しようと思いますが、雨が降っていますので、どうするか考えながら戻ります。
本来お天気であれば、北畠具親城のほか、その南にある吉原氏城まで行ってみたかったのですが、雨のため行程が1時間以上遅れていますので、吉原氏城は諦めることにします。 正直な所、こんな天気なのであれば来ていなかったのですが、降水確率40%、曇りの天気予報に騙されました…。
しかし傘を差して歩いているうちに雨は小止みになり、傘がいらないほどになりましたので、せっかくですので、北畠具親城には登城することにしました。

屈曲した曲輪Uへの虎口   曲輪U

まず国津小学校の北側に縄張図付きの説明板が設置されていますので見に行くことにします。少し高い位置にある場所からは説明板の背後に北畠具親城があります。
北畠具親城の説明板がある場所
登城口は民家の間にあり、古くて読みづらくなっていますが、北畠具親城入口の標柱も建てられています。そのまま尾根筋まで登って右側に行きますと、「ようこそいらっしゃいませ 城主」と書かれた標柱が建てられており、ほどなく曲輪Uの虎口に達します。(この項での曲輪名につきましては、サンライズ出版刊「三重の山城ベスト50を歩く」を参照しております。)
北畠具親城登城口

曲輪Uから見る主郭切岸   主郭

曲輪U前には、右側の主郭より張り出した櫓台のような曲輪があり、それを避けるように折れ曲がりながら曲輪Uに入ります。曲輪Uはかなり広く、右側(南東)には高い切岸があり、その上が主郭となるようです。
曲輪Uの土塁上を伝って主郭に入ります。主郭は四方を切岸にしていますが、土塁はなく曲輪Uより狭くあっさりしています。本来であれば土塁に囲まれた曲輪Uの方が主郭となってもおかしくはないのですが、唯一勝っている点は、曲輪Uよりも高所にあると言うことです。

曲輪V   主郭切岸に沿って南東へ

主郭より南東の尾根筋に曲輪が形成されていますが、主郭の隣の曲輪Vは、南東側に非常に分厚い土塁を持つ曲輪なのですが、入ってみると一面の低い笹に覆われています。雨は止んだとはいえ、この笹藪に突入すると、靴およびズボンはびしょ濡れになることでしょう。また笹藪には山ダニ(マダニ)も多く生息しており、かなり気後れしてしまいますが、意を決して突入するも、肉眼では土塁の様子も分かるのですが写真に撮ると単なる笹藪でした。 幸い山ダニは居ないようでしたが、ズボンを濡らした割には戦果は低く、また曲輪Uまで戻ります。
曲輪Uの北側にも曲輪群が続いているのですが、ここも笹藪なので諦めます。足元が悪く、もうこれで下城しようかと思いましたが、曲輪Uの虎口から南東方面に踏み後程度の小道がありましたので、ちょっと覘く程度に行ってみることにしました。

主郭と曲輪V間の堀切   曲輪VとW間の堀切

この道は、主郭から延びる南東の尾根筋に沿って続いており、主郭、曲輪V、曲輪W、曲輪Xの切岸下を歩くことになり、各曲輪間の堀切が堪能できます。

曲輪W   曲輪WとX間の堀切

堀切をよじ登って曲輪Wに入ります。この曲輪Wは、縄張図を見ますと、両端に櫓台を持つかなり技巧的な曲輪なのですが。やはり曲輪全体を低い笹藪が覆っています。
曲輪Wと曲輪X間の堀切は、かなり鋭利で、縄張図では、南西下に落ち込んで逆L字形に屈曲しています。足元が悪く屈曲部分まで行くことができませんでしたが、珍しい形の堀切となっています。

曲輪X   曲輪Xと物見M間の堀切

曲輪Xは南東に伸びる細長い曲輪で、尾根筋に平行して土塁を持つようですが、やはり笹藪です。その先、笹藪に覆われて単なる窪みにしか見えませんが最後の堀切となります。それを越えますと、この北畠具親城の一番南東部にあたる物見Mです。

物見M   物見M下の作業小屋

物見Mも笹藪で縄張図がなければ何なのか不明な状態ですが、とりあえず南東方面はすべて見ることができました。
これで下城しますが、この道をまた曲輪Uの場所まで引き返すのは億劫なので周りを見渡しますと、この物見Mの下に作業小屋があり、またすぐ近くには送電線の鉄塔もあります。鉄塔からは作業道が下に続いており、これを下りれば下城できると思い下って行きますと、老人ホーム国津園の脇に下りることができました。
下草も少なく大変遺構が見やすかった奈垣 下山甲斐守城と比べますと、曲輪Uと主郭(多分ここだけ草刈りされたのでしょう。)以外は笹藪に覆われており、遺構の全貌が確認できなかったのは大変残念でしたが、北畠氏再興を目指して築かれたお城ですので、かなり複雑な縄張を持つ大変良い山城であったと思います。雨と笹藪これだけが残念の一言に尽きます。
つつじが丘まで戻り、バスに乗って近鉄名張駅まで戻りますと、天気が回復し晴れ間も出てきました。駅に戻ったとたん晴れるとは何と皮肉なことか…。

北畠具親城縄張図

登城日:2019.03.17(日)

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