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伊賀國 比奈知 下山甲斐守城 (三重県名張市)

(読み):ひなち しもやまかいのかみじょう

比奈知下山甲斐守城遠景

城主の下山氏は、甲斐の武田氏一族と言われており、応仁年間(1467〜1469)に伊賀國奈垣村に住したことに始まると言われています。
自領が神宮料であったため、伊勢国司の北畠具教に仕え、奈垣から北部方面への進出のため、下比奈知に城を築き、永正3年(1506)に下山重信が城主となったと伝えられています。
天正4年(1576)下山甲斐守は、北畠具教を伊勢三瀬館で謀殺した、北畠信雄(織田信雄)の配下となり、伊賀統一を進言。天正伊賀の乱を引き起こす要因となりました。

お城への行きかた

近畿日本鉄道 大阪線 名張駅下車。駅西口バス停から、三重交通バス アピタ名張店、敷津、滝之原下出ゆきバス乗車。比奈知学校前バス停下車。徒歩約15分で登城口。


お城の状況、感想など

主郭下の横堀   主郭

伊賀には、下山甲斐守城がこの比奈知と奈垣に二ヶ所あります。まずこの比奈知の下山甲斐守城に登城します。
近鉄名張駅から三交バスに乗車しまして、比奈知学校前バス停下車。県道693号線に入り、名張川を渡りますと、正面にある山が比奈知の下山甲斐守城跡です。登城口に関しましてですが、山城登城のバイブルとも言える、サンライズ出版刊の「三重の山城ベスト50を歩く」によると、「民家福本家の垣根横の上り口から徒歩5分」と書かれていますが、どのお宅が福本さんか分かりません。あまりウロウロしているとアヤしすぎますので、左手の民家の途切れたあたりから無理やり直登してみました。

主郭土塁   主郭土塁と空堀

この行為も考えものですが、せっかくバスに乗ってやって来ましたのでなんとか大目に見ていただくとして、少し上ると横堀に出くわしました。
縄張図を確認しますと、どうも主郭南下の横堀のようです。そこから土塁を越えて主郭に達することができました。主郭は北西方面に虎口があり、周囲を分厚い土塁が囲んでいます。ただ木々が茂っており見通しはよくありません。

主郭と曲輪U間の空堀   曲輪U

真っ先に主郭に到着してしまいましたので、連郭式になっている下山甲斐守城のどちら方面に行ってみようかと思いましたが、南東側の方から攻めることにします。主郭と曲輪U間には、現在は浅くなっているものの空堀があり、曲輪Uには地元の方のものか?墓石がありますが、一部倒れています。

曲輪UとV間の空堀   曲輪V

曲輪UとVの間にも空堀があります。曲輪Vは周囲に帯曲輪が回っている小さい曲輪です。この曲輪Vの南東には、尾根筋に堀切が2本ありますので、この尾根筋を見張る曲輪ではないかと推測されます。

最も南東の堀切   堀切の石組残欠

曲輪Vより、2本の堀切を見に行きます。1本目はかなり浅く、尾根筋がちょこんと引っ込んでいる程度。2本目が下山甲斐守城の最も南東の堀切となり、これ以降は城外となるようです。
三重の山城ベスト50によるとこの堀切には石組残欠が見られると記載されています。石組残欠とおもわれる堀切の側面を写真に収めました。南東側はここまでにして、主郭に戻りまして、今度は北西部に向かいます。

主郭虎口   土塁Mの開口部

主郭に戻りまして、北西に開いている虎口より出て見ますと、馬出のような主郭虎口前の全面を覆っている土塁があります。その先は藪がひどくかき分けながら進んで行くと、ものすごく東西に長い土塁と堀に行き当たります。三重の山城ベスト50には、土塁Mとそれに平行する空堀Nと表記されています。
この土塁Mには、東端に開口部がありまして、そこから出ますと、広い丘端部となっており、曲輪О(馬駆け場)と呼ばれています。主郭周囲が、かなり細かい曲輪配置なのに対して、北西部はだだっ広い曲輪配置となっています。ただ北西部にはその先に名張川がぐるっと周回しており、これを天然の堀とすると、防御上は問題ないように思われます。

土塁Mと空堀   土塁M先の馬駆け場

ここまで来ましたらほとんどの遺構は見たことになりますので、これで下城したいのですが、さてどこから下りればよいのやら…。と考え込んでしまいました。
よく見ると土塁Mに沿っている空堀Nですが、堀底が通路になっているようで、この堀底道を下って行きますと、民家脇に下りてくることができました。この道が三重の山城ベスト50に書かれてあった、福本家脇の登城道のようです。しかし出てきた道を振り返りますと、民家脇をすり抜けるような感じですので、これはちょっと下から道を発見するのは難しいと思われます。
これにて比奈知 下山甲斐守城の登城は終わりますが、その内、本城となる、奈垣 下山甲斐守城にも登城したいと思います。

登城日:2016.02.26(金)

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