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近江國 観音寺城 (滋賀県近江八幡市)

財団法人 日本城郭協会選定 「日本100名城 bT2」

(読み):かんのんじじょう

佐佐木城址碑

観音寺城の築城年代は明らかではありませんが、戦国時代に近江守護の六角高頼が築城したと言われています。標高432mの繖山(きぬがさやま)築かれる。南の斜面に家臣や国人領主の屋敷を配し、それを曲輪とした造りで、山城にも関わらず総石垣の城でした。また南麓の石寺には、六角氏の御屋形が置かれ、楽市も開かれていました。
永禄11年(1568)、織田信長が足利義昭を擁して上洛の大軍を興すと六角氏は敵対し、9月信長に支城の箕作城と和田山城を落とされると、六角義賢・義治父子は観音寺城から甲賀に逃亡し、観音寺城は落城しました。

お城への行きかた

JR西日本旅客鉄道 東海道本線 安土駅下車。北腰越登城口、桑實寺登城口まで徒歩約30分。石寺登城口まで徒歩約50分。さらに伝・本丸まで徒歩約1時間以上。


お城の状況、感想など

北腰越登城道入口   北腰越登城道からみる安土城

安土城下城後、観音寺城に登城します。今回は節約コースとして、入山だけでも拝観料を取られる桑實寺、観音正寺には入らず、100名城スタンプも唯一無料で押印できる石寺楽市会館を利用することにします。
安土城から国道2号線に出まして、北東方面に約400m行きますと、右側に「近江風土記の丘」への入口があります。ここを右折しまして道なりに行きますと、滋賀県立安土城考古博物館や、安土城天主 信長の館方面に行きますが、風土記の丘入口からすぐの場所に繖山へのハイキングコースがあります。ここが北腰越登城道となります。
繖山へのハイキングコース入口の場所

繖山頂上   伝・三国丸石垣

この道は、観音寺城登城に置いて距離が長く一番過酷であると言っても過言ではありません。ひたすら繖山の尾根道を登って行きます。途中、尾根道から振り返りますと、安土山が眼下に望まれますが、これはいけません。ここから安土城跡が丸見えです。このことから、織田信長は安土城を防御拠点ではなく、権力の象徴として築城したことが分かります。
また現在は、国道2号線で分断されていますが、この繖山と安土山は尾根伝いに繋がっていたようです。そのことがここからの眺めでよく分かります。
私の足で北腰越登城道入口より、約50分で繖山頂上に到達しました。この登城道は昨年、平成30年(2018)の台風による通行止めなどなく、しんどいことを除いては大変よいハイキング道だと思います。しかし観音寺城は、繖山の山頂ではなく、繖山南斜面に曲輪を展開している珍しい山城です。

堀切   伝・伊庭丸石垣

さてここで観音寺城登城に関して大変参考になる資料をご紹介します。滋賀県教育委員会が発行している、埋蔵文化財活用ブックレット11(近江の城郭6)観音寺城跡 -江南の雄 六角氏-です。29ページにも亘る冊子で、六角氏の出自から観音寺城の縄張、発掘調査での報告などが記載されています。インターネットでPDFファイルもダウンロードできますので、私も今回の登城の参考にいたしました。観音寺城以外にも近江の城の冊子がありますので、詳しくは、滋賀県教育委員会埋蔵文化財活用ブックレットのサイトをご覧ください。
繖山山頂よりさらに進んで行きますと、城域に入り伝・澤田丸に着きます。ここから南への本丸方面の道と、東への伝・三国丸から尾根道を伝って、東端の伝・布施淡路丸、伝・目賀田丸への道に分かれています。私は本丸から大石垣を見てそのまま石寺に下城するつもりなので、まず東側を攻めてみたいと思います。

伝・布施淡路丸石垣   伝・布施淡路丸の曲輪内

分岐点の伝・澤田丸は、尾根下にある曲輪ですが、一面雑木で覆われており進入は難しいです。これはこの先の伝・三国丸〜伝・馬淵丸〜伝・三井丸にも言えることです。また澤田とか三国とか曲輪に人名が付いていますが、これはこの曲輪を守備した六角氏配下の家臣ならび国人衆の苗字だと思われますが、いずれも“伝”が付いていますので、今のところ推定のようであります。
尾根道を進んで行きますが、観音寺城ではこの尾根道を大土塁として活用しており、尾根道(大土塁)南側を刈り込んで曲輪を展開している珍しい山城です。今進んでいる尾根道から一段低い南側にずっと曲輪群が続いています。(雑木で荒れていますけど。)
もう少し進みますと尾根道に石垣が現れます。伝・三国丸の石垣虎口で大土塁の関所とも言える曲輪です。その先にはでっかい岩がありますがこれが三国岩でこの岩も防御に利用したと思われます。
さらに進みますと堀切があり、伝・馬場丸には佐佐木城址の石碑があります。ただし尾根道からは石碑の裏側しか見えませんので、大岩の上に建てられている石碑を見るには岩に登ってぐるっと正面に回り込みます。少々危険ですのでお気をつけて。

伝・目賀田丸   伝・目賀田丸土塁

佐佐木城址の石碑から先は、伝・伊庭丸の石垣を見てから、尾根道を下りて観音正寺の参道に出ます。そのまま東進(お寺とは反対の駐車場方面)して行きますと、左側に一段高い石垣のある曲輪が伝・布施淡路丸です。方形の曲輪で四方石垣で固められています。また曲輪内の土塁も石垣で固められている見どころのある曲輪です。曲輪内には墓石が1基祀られています。
伝・布施淡路丸から参道を挟んで南側には伝・目賀田丸がありますが、この曲輪は土塁は確認できますが石垣は無いようです。ここで観音寺城の東端となるようですので、また戻って今度は本丸方面に向かいことにします。

ねずみ岩   大土塁側面の石垣

そのまま観音正寺への参道を進みますと、門跡らしい石垣があり、その先には、ねずみ岩があります。ねずみに似ているから名付けられたようですが、ねずみに見えますでしょうか?
この先は観音正寺の寺域に入りますので、拝観料を取られます。観音寺城の本丸方面にも、観音正寺に入らずに行くことができますので、このままねずみ岩の脇から登る道を行きますと、佐佐木城址の石碑の脇に戻ることができます。
尾根道の大土塁をまた伝・澤田丸まで戻りますが、この大土塁の見どころの1つとして、伝・三国丸と伝・馬淵丸の中間ぐらいに、大土塁北東側面に石垣が築かれています。伝・三国丸に向かって右下を見ていると、下りる道がありその脇にも虎口のような石垣があるのが目印です。注意して下りて行きますと、一面に積まれた石垣が堪能できます。この後訪れる大石垣といい勝負の素晴らしい石垣です。

伝・本丸   伝・本丸土塁

伝・澤田丸から南方面に行きます。かなりの下り坂で左手にも、坂を下り切ったら今度は右に進むと伝・本丸です。伝・本丸は昨年の台風による倒木が多く見づらくなっていますが、それでも土塁もしっかりとしており、広さも充分あります。伝・本丸の見どころは桑實寺方面に出る虎口は、石垣による喰違い虎口となっています。その虎口を出まして、桑實寺方面ではなく反対側に、伝・長束丸に下りる道がありますので、この道を少し下りますと、石垣造りの大夫井戸があります。

伝・本丸の喰違い虎口   大夫井戸

伝・本丸に戻りまして、伝・平井丸方面に向かいますが、一直線に下りる大石段を下ります。この大石段を見た織田信長が、安土城築城の際、三交として大手道を一直線にしたとも伝えられています。安土城大手道同様、防御的には何の効果もありませんが、六角氏の権力を見せつける手段として、伝・本丸にこのような石段を築いたのではないかと思われます。

大石段   伝・平井丸虎口

大石段を下って伝・平井丸に向かいます。虎口の石垣が大きく大変立派ですが、石段による平入り虎口となっています。この曲輪もかなり広く、また伝・本丸のすぐ南にある曲輪のことから、六角氏の家臣団において平井氏はかなりの力を持っていたと思われます。

伝・平井丸   伝・平井丸石垣

伝・平井丸に入ります。曲輪内には、石垣によって造られた正方形の石柱??が何か所かにあります。この石柱はいったい何なのか、礎石なのか?それとも後世に積まれたものか?はまったく不明です。
さらに伝・平井丸の奥に行きますと、虎口にように狭まり3段ほどの石段で登ることになりますが、2段目の曲輪は広くはありません。印象としては、屋敷の背後に社でも祀られていた感じです。

伝・平井丸   伝・平井丸石垣

伝・平井丸を出まして、周囲を石垣を見てみます。特に南西部の角の石垣が大きく算木積みになっているのが分かります。算木積みと言えば、かなり新しい積み方ですが、戦国期のこの観音寺城にも採用されていたことに、伝・本丸の大石段と共に六角氏の先進性を感じます。

伝・落合丸   伝・池田丸

伝・平井丸から南には、伝・落合丸〜伝・池田丸と細長く曲輪が続いています。伝・池田丸は観音寺城南の要とも言うべき長い曲輪で、大石垣から追手道へと続く道を守備しています。

伝・池田丸石垣   女郎岩

南北に長くまた広い、伝・池田丸は曲輪内部も石垣で固められており、西と南に虎口があります。南の虎口は大石垣方面に行けますが、西の虎口に関しては、縄張図を見ても、その先に登城路や曲輪などはなく、どこへ続くのか何のための虎口なのか不明です。
南の虎口から伝・池田丸を出て、観音寺城では最大級の大石垣に向かいます。

大石垣   大石垣付近からの眺望

大石垣に続く道には、ます女郎岩と言う大岩があります。「これが大石垣なの?」と勘違いしそうですが、この女郎岩を越えてもう少し見ますと、観音寺城の幟が2本建てられています。この幟のある斜面に大石垣が築かれていますが、ここからは見えません(見ようとすると転落します。)。もう少し先に大石垣の展望所が造られていますので、ここから全容を見ることができます。
以前は、雑木に覆われてかなり見にくかったようですが、周囲の木を伐採し、観音寺城の幟を建てることにより、麓の石寺地区から見ることができるようになりました。すぐ南側を走る東海道新幹線からも注意すれば、この大石垣を見ることもできそうです。今度新幹線に乗った時、見てみたいと思います。

伝・木村丸埋門   曲輪内から見た埋門

大石垣・女郎岩から追手道登城路を少し下りますと、東側に伝・木村丸があります。この曲輪の見どころは埋門(うずみもん)です。この埋門は、伝・平井丸にもあったようですが、見逃してしまいましたので、この伝・木村丸の埋門をしっかりと見学してから下城たいと思います。
この埋門は、石垣を一か所入れずに空洞とした感じですが、この広さとしては人は通れませんし、門の役割を果たしていません。伝・木村丸内部からですと少し広いようですが、これでも子供が通れるかどうかの広さです。狭間にしては広すぎますし、本来の用途は何だったのでしょうか?

六角氏御屋形跡   六角氏御屋形跡

埋門も見たことですし、これで下城することにします。正直な所、織田信長に簡単に蹴散らかされた六角氏の居城ですから、それほどのものではないと高をくくっていましたが、壮大な城域と曲輪の数、そして総石垣の造りに驚きました。
これだけの山城なのに、この城で織田信長と一戦を交えず、支城が落城したことにより、六角承禎はさっさと城を捨て甲賀に逃亡します。何故なのか?と考えますと、観音寺城の各曲輪には、家臣団および、国人衆の名前が付いていますが、これが要因ではないかと推測します。
効率のよい戦をする織田信長のことですから、支城の箕作城は力攻めで落としたものの、六角氏の家臣団には、内通の工作もしていたことでしょう。それにより、家臣団の統制が崩れ、逃亡したり織田軍に寝返るものがあり、壮大な観音寺城を守備する人員が不足し、六角承禎も家臣に疑心暗鬼となり、早々に逃亡したものと思われます。

天満宮の石垣   天満宮参道

追手道登城路を下りて行きますと、一旦、車道(観音正寺駐車場への林道)に出ますが、車道を少し左(東)方向に行きますと、また追手道登城路があり、さらに下って行きます。
下りた所が天満宮となりますが、この天満宮が、観音寺城麓の六角氏の御屋形跡となります。天満宮の石垣が立派でこれは御屋形時代からのものでしょうか?

天満宮の石垣   麓から見た大石垣

天満宮から隣の日吉神社を経由して、石寺地区に下りました。これで石寺楽市(地元野菜とかの販売所。)にて、100名城スタンプ押印して観音寺城登城終了とします。
が、石寺楽市は3月中旬で閉店と貼紙がしてあり、ピンチに立たされましたが、ここより東に80mほどの石寺楽座会館に100名城スタンプが移設されているとの別の貼紙をみて安堵しました。
石寺楽座会館は、早い話、地元の公民館です。玄関ドアを入った所に100名城スタンプがあり、受付の方に挨拶して押印させていただきましたが、この石寺楽座会館は、土休日が休館のようで注意が必要です。(詳しくは、石寺楽座会館までお問い合わせを。)
ここからJR安土駅まで歩きましたが、徒歩で50分ほど掛かりました。途中、帰り道の道路から観音寺城の大石垣も見ることもできましたが、新幹線車内からでは一瞬ですから、注意しなければ見逃しそうです。
これで本日の安土城と観音寺城の2つの山城登城は終了です。久々の安土城。初めての観音寺城と疲れはしましたが、大変満足して帰りのJR電車に乗りました。

日本100名城スタンプ情報

観音寺城スタンプ

観音正寺拝観料金所
安土城郭資料館
桑實寺
石寺楽座会館 の各施設に設置してあります。
各施設内にて保管されていますので、開館時間内でないと押印できません。
各施設の入場料、開館時間、定休日などはサイトをご覧ください。

登城日:2019.03.28(木)

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