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薩摩國 西郷隆盛終焉の地と南洲墓地
        (鹿児島県鹿児島市)

(読み):さいごうたかもりしゅうえんのちとなんしゅうぼち

西郷隆盛像

西南戦争は、明治10年(1877)に鹿児島を中心とした地域において、西郷隆盛が開校した私学校の士族が西郷を盟主にして起こした内乱です。
明治新政府を辞し、鹿児島に退隠した西郷は、各地の士族反乱にも呼応せず自重していましたが、政府と鹿児島私学校の士族間との緊張が激化すると、明治10年(1877)1月、政府は、鹿児島草牟田陸軍火薬局の火薬が私学校士族の手に渡るのを警戒し、県庁にも連絡せずにひそかに搬出を試みましたが、事前に漏れてしまいます。
この事は私学校士族を強く刺激し、士族側が、1月30日夜に陸軍火薬局ならびに磯海軍造船所付属火薬庫を襲って弾薬を奪ったことが発端となり、西郷もこの勢いを抑えることはできず、日本最後の内戦に突き進んで行きました。
しかし政府軍に各地で敗退、鹿児島に帰り、城山に最後の陣を布いた西郷を待っていたのは、明治10年(1877)9月24日の官軍の城山総攻撃です。西郷は司令部のあった洞窟を出たところで大腿部に銃弾を受け、別府晋介の介錯でこの地に果てたました。享年満49才。

南洲終焉の地と墓地の行きかた

JR九州旅客鉄道 鹿児島本線 鹿児島駅下車。徒歩約15分。(下の地図は「終焉の地」)
JR九州新幹線鹿児島中央駅下車。駅前より周遊バスカゴシマシティビュー乗車。
終焉の地は、薩摩義士碑前下車。西郷隆盛洞窟は、西郷洞窟前下車。南洲墓地は、南洲公園入口下車。


お墓の状況、感想など

西郷隆盛洞窟   西郷隆盛洞窟

JR鹿児島中央駅より、周遊バス カゴシマシティビュー利用が大変便利です。薩摩義士碑前バス停で下車して鹿児島本線の線路を渡ると、西郷隆盛終焉の地があります。そのまままっすぐ約400m行くと、西郷隆盛洞窟です。
洞窟の前には柵があり中には入ることができませんが、それほど大きな洞窟ではなさそうです。城山は、鶴丸城の詰めの城(上山城)があった要害の地ではありますが、西郷軍が300余名となった今では、どうしようもない有様で、西郷どん、桜島を眺められる地で最後を飾ろうとしたのでしょうか。
しかし明治10年(1877)9月24日に政府軍4万の総攻撃が始まると、西郷軍は為すすべがなく、西郷は洞窟を出た所で銃弾を受けて自刃しました。この場所が、西郷隆盛終焉の地です。
西郷隆盛最期の言葉は、付き添った別府晋介に対して言った「晋どん、もうここらでよか」でした。

西郷隆盛終焉の地   西郷隆盛墓所

「西郷隆盛終焉の地」から北東に約1kmのところに、南洲公園があり、公園内には、西郷南洲顕彰館や、南洲墓地、西郷隆盛を祀る南洲神社があります。
南洲墓地には、西郷隆盛をはじめ、桐野利秋、村田新八らの幹部ならび、薩軍2023名の将兵が眠っています。
戊辰戦争から西南戦争を鑑みると、国父・島津久光や家老の小松帯刀の考えとはうらはらに、“討幕”へ突き進んだ西郷隆盛や大久保利通などの下級武士が明治新政府を樹立しました。
しかしその後、考えの相違で政府を離れた西郷を待っていたのは、自分の教え子(私学校出身の士族)たちの政府への反乱でした。
西郷が薩摩の殿様や家老を差し置いて突っ走ったように、また教え子たちが西郷の考えを差し置いて突っ走り、西南戦争を引き起こした原因となったわけで、何と言う運命の皮肉かと思います。
まさに「歴史は繰り返す」ですが、西郷どんの胸中はいかに?だったでしょうか。

五代友厚誕生地   誕生地の碑

西郷どんとは関係はありませんが、この近くには、五代友厚誕生地もあります。 五代友厚と言えば、2015年度下半期放送のNHKの朝のテレビ小説「あさが来た」で、一躍有名になった方(役のJ・フジオカはカッコよかったです。)で、薩摩藩士としてこの地で生まれて、明治になり実業家に。大阪では、大阪株式取引所(現・大阪取引所)、大阪商法会議所(現・大阪商工会議所)などを設立。大阪の商業発展に尽くした偉人です。
ちなみに現在の大阪取引所(元 大阪証券取引所)では、日本株でお馴染みの日経平均株価の先物など、デリバティブに特化した株式取引を行っています。
五代友厚誕生地の場所

大阪証券取引所前の五代友厚像

墓参日:2016.02.04(木)

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