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伊賀國 福地氏城 (三重県伊賀市)

(読み):ふくちしじょう

福地氏城跡碑と登城口

福地氏城の築城年代は明らかではありませんが、伊賀の国人領主である福地伊予守宗隆の居城でした。
天正9年(1581)の第二次天正伊賀の乱では、福地伊代守は、織田家に内通し、伊賀攻めの手引きをすることを約束すると、北畠(織田)信雄を大将に織田軍は5万の大軍で伊賀国に侵攻。8日ほどで伊賀国を制圧しました。
織田方に内通した福地伊予守は、所領を安堵されますが、天正10年(1582)の本能寺の変後、裏切って織田の手引きをした福地伊予守をよく思わない他の伊賀国人領主の攻撃を受け、福地伊予守は、他国に落ち延びたと言われています。

お城への行きかた

JR西日本旅客鉄道 関西本線 柘植駅下車。徒歩約25分。

お城の状況、感想など

福地氏城枡形虎口

JR柘植(つげ)駅で下車。駅の南西方面直線で約1.5kmの場所に福地氏城があります。駅前から県道50号線を西に、柘植小学校の東側を通って南下するのが分りやすいかと思います。
福地氏城の登城口は、城の南西部になり、ここに福地氏城跡の石碑と説明板が設置されています。ここから石段を上って登城します。坂を登り切りますと、右手に住宅が建てられていますが、ここは主郭部を守る曲輪(出丸か?)であったようです。この住宅から北方にも下りて行く石段があります。この石段ですが、法面に石垣が見られますので、ここが正式な登城口で、城跡石碑からの石段は公園化にあたって付けられた道である公算が高いです。

主郭の空堀

正規の登城口と思われる石段ですが、登って行くと枡形虎口になっており、正面に例の住宅があります。この住宅が櫓だった場合、攻城側は正面から弓矢による攻撃を受けることになりそうです。
虎口から左に曲がると、空堀がありその先が主郭の虎口となりますが、この主郭虎口は石垣造りで大変立派なものです。伊賀や甲賀の国人領主の城と言いますと、土造りが主でほとんど石垣は見られませんので、この石垣は、福地氏以降に入った領主が修築した可能性もありそうです。

主郭虎口前土塁  石垣の虎口

主郭内

主郭内は芭蕉公園として整備されています。松尾芭蕉は、この福地氏の末裔だそうで、近くの萬寿寺には松尾芭蕉の墓碑もあるそうです。主郭内には東屋があるのですが、この東屋内には、俳句の投書箱が置かれてあったりします。さすがは芭蕉ゆかりの城です。
主郭周囲には高い土塁が巡っていますが、主郭のすぐ南には名阪国道が東西に貫いており、この道路建設により、一部福地氏城の遺構が破壊されたようで残念です。

井戸

主郭内には井戸もあります。この井戸の脇に案内板が建ててあり、小説家の横光利一の「考える葦」の中からの一文が紹介されています。横光利一が幼少期にこの柘植村に住んでいたころ、この福地氏城によく遊びに来て、この井戸の前には句碑があり、その句碑には芭蕉の有名な「古池や蛙飛び込む水の音」と書かれてあったとか。芭蕉がこの井戸を見てこの句を詠んだ訳ではないでしょうが、この城を舞台に有名な俳人と小説家の関わりに感心しました。
「松尾芭蕉は忍者であった。」と言う説もありますが、伊賀の国人領主を先祖に持つ芭蕉は、俳諧紀行と題して、各地の偵察をしていたのやも知れません。

主郭の土塁

登城日:2011.03.14(月)

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