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肥後國 人吉城 (熊本県人吉市)

財団法人 日本城郭協会選定 「日本100名城 bX3」

(読み):ひとよしじょう

人吉城大手門跡と多聞櫓

源頼朝に仕えた遠江国相良の国人であった相良長頼が、建久9年(1198)に鎌倉幕府の命により、肥後国人吉の地頭に任ぜられました。
この地は平頼盛の家臣の矢瀬主馬佑が原城を構え支配する所でありました。主馬佑は原城空け渡しに応じなかったため、相良長頼は矢瀬主馬佑を暗殺します。
その矢瀬氏の原城を拡張して居城としました。天正年間(1573〜1593)には、相良義陽により城の大改修が始められ、天正15年(1587)の豊臣秀吉の九州征伐時には、島津軍の傘下であったため秀吉に歯向ったものの降伏。何とか取り潰しを免れて所領を安堵されます。
関ヶ原合戦では、当初西軍に加担していましたが、時の家老、相良清兵衛の機転で東軍に寝返り、合戦後も人吉2万2000石を安堵されました。その後、相良清兵衛は人吉藩にて実権を握ることになります。
近世人吉城は東に球磨川、西に胸川が流れる要害の地で、南東最高部を本丸とし、その北西方に二の丸、三の丸を配した堅固な造りで、石垣の最上部を一段外方に張り出す武者返しの石垣が有名です。

お城への行きかた

JR九州旅客鉄道 肥薩線 人吉駅を下車。徒歩約25分。


お城の状況、感想など

大手多聞櫓

JR肥薩線の人吉駅を下車。駅前まっすぐに行き、急流で有名な球磨川を渡ります。200mほど歩くと右に「永国寺」があります。このお寺には幽霊の掛軸があり「幽霊寺」として有名です。(この掛軸の複製が無料で拝観できます。)
幽霊寺の前を左折すると武家屋敷があり、大手橋を渡ると大手門跡です。大手門の石垣の横には多門櫓が復元されています。大手門を入りますと現在は人吉市役所が建っています。ここからが城域となります。

幽霊の掛軸




←永国寺の「幽霊の掛軸」です。
(怖いので写真小さめ)

人吉城枡形虎口

人吉藩主の相良氏を祀る「相良神社」を参拝して、神社の横から登城しましたが、ここは大手道ではなく、直接三の丸に登る道でした。
現在、この人吉城は石垣しか残ってませんが、かなり重厚な造りで、ちょっと2万2千石の大名の居城としては立派すぎるぐらいです。
三の丸から二の丸〜本丸に向かいます。当時の二の丸には御殿があり、本丸には天守閣はありませんでしたが、「護摩堂」が建てられていたようです。

人吉城本丸跡

帰りはちゃんと大手から下城します。
この人吉城でなんと言っても有名なのは、「武者返しの石垣」です。石垣の最上段が出っ張っています。ちょうど奈良正倉院の「ねずみ返し」のようなものでしょうか?これで石垣をよじ登って来る敵を阻むのでしょうが、効果のほどはいかに??
この「武者返しはの石垣は、他に函館五稜郭にしかないそうです。
最後に「人吉城歴史館」に寄ります。この歴史館の別名は「相良清兵衛屋敷」。名の通り、人吉藩家老であった、相良清兵衛の屋敷跡に建てられた資料館です。
この相良清兵衛と言う人物、元は犬童頼兄(いんどうよりもり)と言い、藩主の相良氏の血縁ではありませんが、数々の功により“相良姓”を名のることを許されたようです。
関ヶ原合戦では、当初、西軍についていたものの、清兵衛の機転で東軍に寝返り、相良氏は人吉の地を安堵されます。しかしその後、それをいいことに藩主を差し置いてのふるまいが続き、堪りかねた人吉藩第2代藩主の相良頼寛は、寛永17年(1640)に幕府に訴え出ます。(お下の乱)その結果、清兵衛は、津軽藩預け(流罪)になります。権力を得るのはいいのですが、藩主(上司)を差し置いてのふるまいはほどほどにと言う見本でしょうか?
なおこの相良清兵衛屋敷には地下室があり見学できます。色々な説があるものの(「変があった場合の隠れ部屋??」、「財宝の隠し場所??」)、何のための地下室かは現在でも謎だそうです。

武者返しの石垣

日本100名城スタンプ情報

人吉城スタンプ

人吉城歴史館」の入場券売場に設置してあります。
入場券売場内にて保管されていますので、開館時間内でないと押印できません。
人吉城歴史館の開館時間、定休日などはサイトをご覧ください。

登城日:2009.01.18(日)

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