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肥後國 原城 (熊本県人吉市)

(読み):はらじょう

原城本丸の留魂の碑

原城は、中世人吉城とも呼ばれ、近世人吉城の背後の台地上にあったお城です。
人吉に相良氏が入封するまえは、平氏の国人、矢瀬主馬佑の居城でしたが、鎌倉幕府の命により相良氏が入封するも、矢瀬主馬佑は原城空け渡しに応じなかったため、業を煮やした相良長頼は策略により矢瀬主馬佑を暗殺して、原城を拡張し居城としました。
この原城は、上原城を本城として、中原城、下原城、内の御城、西の丸といった各郭からなりったっており、規模は東西1km、南北0.5kmの広大なお城でした。各郭は、中世の城らしく、空堀、堀切などで分断されており、中世の築城技術が色濃く残っています。
その後、石垣造りの近世人吉城が築城されると、中世の原城はその役割を終えました。

お城への行きかた

JR九州旅客鉄道 肥薩線 人吉駅下車。徒歩約35分。


お城の状況、感想など

上原城と中原城を分断する堀切

JR人吉駅から、人吉市役所前の大手橋をまず目指します。大手橋を渡ってまっすぐ行き、相良神社を越えたあたりから登り坂になります。もう原城の城域に入ったようです。
坂を登り切ると、右手に「予科練留魂の碑」への登り口があります。そこに「中世人吉城(原城)案内板」があります。
なお「予科練」とは、旧日本海軍における航空機搭乗員の養成制度で、ここ人吉でも昭和19年に搭乗員育成のため急遽予科練を設置し、約6000名もの搭乗員を送り出したとのことです。

原城配置図



←原城配置図です。
(クリックで拡大)

瑞祥寺西の空堀

この「予科練留魂の碑」のある場所が、本城とされる上原城の本丸になります。「留魂の碑」の横に「原城跡」の案内板が落ちていました。(多分、木の杭などに打ちつけてあったたのでしょうが、木が朽ちたのか案内板だけ地面に落ちていました。)
実際、本丸は「留魂の碑」よりもっと奥になるかと思いますが、藪が行く手を阻んでおり、行くのを諦めました。

原城堀切

「留魂の碑」から降りまして、もう一度「中世人吉城案内板」に掲載されている原城の配置図をみますと、相良神社から登って来た道自体が、上原城と中原城を分ける堀切だったようです。中原城は、現在水道施設になっており立ち入ることはできませんでした。
「留魂の碑」から少し東に行くと、瑞祥寺があります。このお寺の手前に空堀があり、この空堀が上原城、中原城と下原城を分ける堀です。ここに大手門があったと記されています。
また瑞祥寺の東側は急な谷間になっており、これは一見するに大堀切ではないかと推測されます。
人吉は、中世と近世の両方のお城が楽しめる大変良い街でした。

登城日:2009.01.18(日)

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